一途に一隅を照らす
478COMPANY代表取締役 與那覇仁氏
窮屈さバネに新市場を開拓
沖縄の経験生かし「世界の地域商社」へ
全国に先駆けて、沖縄県産シークヮーサーで6次産業化のモデルを築いた沖縄特産販売前社長の與那覇仁さん(48)。生産から加工、販売、輸出まで、25年間に渡って沖縄の特産品を国内外に届ける流通基盤づくりに携わった。倒産した家業の跡を継ぎ、一家の中心となって卸事業をスタートさせたのは21歳の頃。多額の借金を背負ったマイナスからの立ち上がりだったが、「怖いものは何もなかった」。2年前、創業から家族で立ち上げた会社の代表を46歳で退いた。現在、沖縄を起点にコトやモノで県外、海外をつなぐ新会社 「478COMPANY(ヨナハカンパニー)」を設立、再び現場の一線に立つ。「学校」や「業界」で感じた窮屈さをバネにして、“体当たり“の突進力で新たな価値を引き出してきた。若い世代に伝えたい仕事を、自分の背中で見せ続けていく、気概と軌跡を語る。
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世界の「人」とつながり、沖縄からモノが動く
「海外のマーケットは無限に広がっている。チャンスはまだまだある。掘りに行かないと」
今年8月、コロナ禍にあっても478カンパニーの県産黒糖を輸出する計画は予定通りに進んだ。ネスレ香港が製造する黒糖を使ったスイーツの原料として提供、年間500トンの出荷を目指して取引がスタートした。
イギリスの蒸留酒メーカーには昨年から、ジンの香り付けに使われる原料にシークヮーサー果汁を輸出。英カンタベリーブリュアーズ&スチラース製造の「仁ーGINー」(500ml、33英ポンド)が、英国内で売られている。與那覇さんの名前の漢字を気に入った同社が、商品名に採用した。沖縄から年間10tのシークヮーサー果汁を送る計画だ。
「他にも、扱うのは細かな商品がたくさん。島豆腐、缶詰、お菓子など。各国で知り合った人とのつながりの中で、沖縄からモノが動く。コロナの影響はほとんどない」。中国、台湾、シンガポール、タイ、豪州に加え、近く、米国へも輸出が始まる。
高校を卒業して1年間、東京都内の建設会社で鉄筋工として働いた。「沖縄の人は家を借りられなくて、その会社の社長が身元引き受け人に。同級生たちもみんなそんな感じでした。本土ではどこか沖縄の人はウェルカムではない、いじられたり、ネタにされたり。それをずっと窮屈に感じていた」。厳しい仕事の要求に応えながら、「沖縄の人に対する評価を全部クリアにさせたいと思っていた」と語る與那覇仁さん=9月10日、豊見城市内
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怠惰な中高時代、祖父の急逝から誓い
1972年、沖縄県豊見城市に生まれ、3人兄弟の長男として育った。小学校時代の児童会長や地区陸上キャプテンなどを務めた生き生きとした記憶とは対照的に、中学生になると、勉強や好きだった野球から遠ざかった。高校は不登校続きで留年し、卒業が危ぶまれるほど怠惰な時間を過ごした。
「幼い頃から長男、長男と言われて、どこかで葛藤みたいなものがあったのだと思います。当時はしがらみに押しつぶされそうになって、いろんなことから逃げ回って」。
しかし、反れかけた道から一気に現実へと引き戻される、悲しい出来事が起きた。4月からの留年が確定した高2の3月31日、交通事故で祖父が急逝した。
幼い頃から初孫の與那覇さんを可愛がってくれた特別な存在。教員で校長先生まで務めた、尊敬する教育者でもあった。学業から次第に距離を置くようになった孫をいつも気にかけ、教職を定年退職した後にはとうとう、孫の通う高校に数学の講師として顔を出すようになった。
「わざわざ高校にまで来たことが本当に嫌で、反発して余計に行かなくなってしまったんです。でもそうしているうちに、急に亡くなってしまって」。
突然の不幸に直面して初めて、祖父が自分にどれほどの愛情を注いでくれていたか、深い思いが胸に突き刺さった。退学を考えていた気持ちを押し退け、なんとしてでも高校を卒業すると決めた。人より1年多い残りの高校生活、惰性に過ごした時間を取り戻そうと学業に向き直った。
中学時代の與那覇仁さん(右)。祖母、弟さん2人と食事会の帰りに=1985年、那覇市・ホテルエッカ
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家業の失敗、多額の負債からの始まり
物心ついた時から両親は共働きで、常に忙しくしていた。「商売を始めたこともあって、子どものことは放任状態。荒れていく息子とどう向き合っていいのか、わからなくなっていたのかもしれない」。
会社勤めだった父親が商売を始めるといい出したのは、小学4年生の頃だった。母親も一緒に学習塾の事業で生計を立てた。県内各地に教室を構え、10年間で年商10億円の規模にまでになった。だが、本業ではない不動産投資で失敗。バブル崩壊の煽りを受け、会社は倒産し、3億5千万円の負債を抱えた。
取り立てに追われ、一家離散の状態に。長男の與那覇さんが矢面に立った。二十歳だった。直前まで住宅販売の会社に勤め、営業成績は優秀。時には月収70万〜100万円を得ていたが、苦境に陥った家業を助けるためにと、社長の引き留めを振り切って退職した矢先の、倒産だった。
「取り立て屋に罵声を浴びせられたり、脅しの電話がかかってきたり。自宅の前で待ち伏せされ、いろんな人たちが押し寄せてきたけど、まったく怖いとは思わなかった。それまで、何をやるにも一生懸命には向き合わない、くすぶっている自分がいた。どうにか変わりたいという思いが弾けたのだと思います」。
一つ一つの義務と仕事の困難から逃げずに向き合う、人生の分岐を迎えていた。
不動産会社勤務時代。営業の基礎を叩き込まれた=1993年
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活路求め、沖縄の外へ
「事業を始めたばかりの頃は沖縄で相手にされなくて。だから県外や海外に出ていくしかなかった」
父の会社の倒産後、バラバラに暮らしていた家族が再び豊見城市内の自宅に集まり、2度目の商売を始めたのは1995年。與那覇さんを代表に個人事業からのスタートだった。母方の親族が石垣島で経営していた土産品の卸事業を手本に、商品の仕入れと販売を始めた。
「当時は観光土産の小売店に商品を卸すには、『仕切り』という業界内で決められた掛け率がありました。それが大体35%から40%。1000円の販売価格であれば、『350円、高くても400円で持ってきなさい、中身はなんでもいいから』という。ここから卸の利益を取ろうとすると原価を割ってしまう。支払いサイクルも中には最長120日先という約束事があったりして、お金が回らない。業界の顔ぶれは決まっていて、どんなに頑張っても個人経営のような規模では、抜きん出ることはできないと思った」
県内での卸事業を早々と縮小させ、1年も経たずに大消費地、首都圏に活路を求めるようになった。
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通販カタログ活用 直接顧客とつながる
本土復帰以来の、観光地として全国的な注目を集めた「沖縄ブーム」が巻き起こったのは2000年に入ってから。沖縄はG8沖縄サミットの開催を契機に、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」のヒット、県出身の歌手の活躍などが重なり、特産品市場も活気づいた。
沖縄特産販売は、そのブームより4年早い1996年にはすでに、千趣会やニッセンなど大手通販カタログを通して直接顧客につながる「BtoC」の営業ルートを確立していた。「カタログと一緒に届くチラシをみた人が健康茶やウコンを直接注文してくる。商品を送る時には、手書きで作った『沖縄の食材百選』の注文票を入れて、そこからまた注文が入る。コーレーグースーとか、スクガラス、海ぶどう、もずくなど。当時はまだ沖縄の食材は珍しく、思った以上に反応が良かった」。
通販カタログの活用は宮古島にいる父親の先輩の紹介で得た出口。おかげで、沖縄ブームが到来したときには、他の事業者に先駆けて本土市場からの受注基盤が整いつつあった。
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待ちの営業から、コールセンター営業へ
会社の創業メンバーは両親と妻を含め4人。「実家にいるのでご飯も全員で一緒、プライベートもなくて。妻と僕でもらった給料の7万円で、生まれたばかりの子供のおむつ代などを賄った。小遣いもないから飲みにもいけないし、同級生の結婚式にも一度も出たことがない。友達との懇親会に行けるようになったのは、それから10年以上経ってからだったかな」
毎日、スーパーごとに特売日をチェックして、商品の在庫を買い集めた。自宅が事務所兼倉庫となり、家族総出で受注・発送業務に明け暮れた。紙の台帳で管理していた顧客名簿は3年で8千件を超えた。
「ある時、カタログ会社側の不祥事で、チラシ配送がストップした期間があって。困り果てて、台帳にある顧客の電話番号にかけてみると、『ちょうど切れていたから、注文するわ』という。今までチラシ広告で“待ち“の営業だったのに、こちらから電話しただけで注文が取れたと大騒ぎになって。うちにとっては画期的な出来事でした」。
それから、電話による営業・受注にも力を注いでいく。いわゆるコールセンターの走りだ。
「お客様の中には、沖縄を応援してくださる方が結構いました。沖縄戦大変だったでしょうと年配の方が話し掛けてくれたり。『お宅らの会社、全員ヨナハなんやね』と笑いが起きたり。中には、いまだにクバ傘とランニングシャツ、裸足で歩く山下清のイメージを持っているお客さんもいたりして。まだまだ本土の人にとって沖縄は距離が遠いんだなって思っていました」
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夢のような2千件受注、シークヮーサーが看板商品に
そんなある日、転機が訪れた。NHKの情報番組でシークヮーサーの効能が紹介されたのを機に、沖縄産シークヮーサーが大ブレイクした。カタログチラシの「沖縄の食材百選」の中ですでに商品を扱っていただけではなく、当時としては珍しく自社のホームページがあり、サイトからも注文を受けていた。
「普段は月に1件あるかないかの注文だったから、ホームページの中身を確認する習慣がなくて。『いつ届くんだ』という1本のクレーム電話で、大ごとになっていることに初めて気がついたんです」。
慌てて開いたサイトの注文ページに目を疑った。ズラーっと雪崩を打つように現れたのは、シークヮーサー商品の申し込み者リスト。その数2千件超。
「ものすごい注文の嵐。宝くじに当たったような、夢のような瞬間が忘れられない。急いで生産者に問い合わせたら、『今年の分の原料はもうない、また来年だね』という。いえいえ、諦められません!と言って、その日から山原(やんばる)を走り回る日々が始まりました」
片っ端から農家を訪ねると、未収穫の果実がまだ一部で残っていた。「自分たちで収穫して持っていくなら売ってあげてもいい」と言われ、飛びついた。
収穫後は、絞り汁をとって殺菌、充填する作業に難航し、あっという間に“家内工業“は限界に達した。それから生産委託先を確保するまで2ヶ月半。結局、原料不足で注文のほとんどをさばくことができなかった。だが、大量の顧客リストが手元に残り、その後のDM営業の大きな支えになった。
東京で開かれた食品展示会の沖縄ブースに初出展した=2000年頃、東京都内
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農家への敬意新たに、家族経営の交流で差別化
「シークヮーサーが大ブレイクして、いろんな業者が動きましたが、原料がないとわかった時点で諦めたところが多かったと思います。でもうちは追いかけた。2千件も受注したのだから、なんとしてでもやってやろうと。よそと違って、柱になる商品が何にもなかったからこそ、全力を注ぐことができた」と振り返る。
以来、シークヮーサーは会社を代表する看板商品になり、契約農家との信頼関係を少しずつ築きながら、生産、加工、販売まで、一気通貫の体制をつくり上げた。一方で、成分の機能性の高さからシークヮーサーの人気は底堅く、他社に生産者ごと横取りされるような事態もたびたび起きた。
「商品を買いたいからどんな畑か見せてほしい、農家を紹介してほしいといろんな人が訪ねてきました。中には名の知れた大手メーカーの担当者なんかもいて。実際に現地に連れていくと、次の日には農家と直接契約していたりする。農家さんには『與那覇さんがいいと言っている』と伝えていて。人間不信というか、そんな時期がありました」
そんなとき、農家との交渉に翻弄されているように感じて愚痴をこぼした與那覇さんに、ある人がこんな言葉を投げかけた。
「あなた、誰を相手にしていると思っているの。農家さんはお天道様を相手にお仕事しているんだから、厳しい価格交渉があって当たり前。その方々から何かを分けてもらってビジネスをさせていただいているんだから、大変だとかいうもんじゃない」と。
この一言で、スイッチが切り替わった。生産者への敬意を新たにできたことで、農家との関係性はグッと近くなった。農家と同じ家族経営ならではの親密な交流は、自ずとと他社との差別化につながっていった。
シークヮーサーの生産者と家族ぐるみの交流を通して信頼関係を築いた。
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沖縄人の評価、プラスに塗り替えたい
「全国のコンビニ店で始まるスイーツ企画の新商品用に紅芋ペーストがほしい」「冬のキャンペーン企画で賞品にする沖縄産ソーキそばセット1万5千食を仕入れてほしい」__。
県外向けに、通販で特産品の販売を続けていくうちに、本土の大手コンビニエンスストアや食品、ビールメーカー、量販店から、沖縄フェアなどのイベント用に沖縄県産品をまとめて仕入れたいという依頼が舞い込むようになる。
ソーキそばセット1万5千食の受注では、「沖縄県産ソーキ」「生麺」の組み合わせを依頼された。だが、当時販売されていた商品はどれも外国産の肉が使われ、麺は一定期間保存が可能な生麺商品を探すことができなかった。対応できるメーカーを探して訪ね歩くと、商品開発に協力してくれる企業が現れた。県産ソーキと冷凍そばを組み合わせ、オリジナルのセットにして1万5千食の納品にこぎつけた。
「投げられた課題や仕事に対して、あれ?これだれも拾わないのかなと思うことがよくありました。僕だったら、相手から宿題をもらったら、ちゃんと対応したい、絶対に乗り越えたい。沖縄の人に対するマイナスの評価を、全部クリアにさせたい、そんな気持ちがずっとどこかにあったのだと思います」
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喰らい付いて、学んで、得た「仲介役」
本土や海外企業との仕事は、求められるレベルや態度は厳しかったけれど、受け入れてもらい、チャンスをもらい、育ててもらったという自覚がある。
「大きな会社でも、いいと思うものだったら肩書きのない一個人の提案に関係なく採用してくれた。初めてのことでも喰らい付いていくと、ルールをちゃんと教えてくれた」。
最初は「日本人なのに日本語が通じない。わからないことだらけ」の連続だった。上代、下代、仕様書、リードタイム・・・企業担当者が次々投げかける基本的なビジネス用語がまったく理解できなかった。しかも、企業によっては新卒のような若手担当者でも電話越しに、「使ってやっているんだから、とにかく持ってこいよ」と言わんばかりの態度で接してくる。
電話口の説明を全部書き留め、「あーなるほど、わかりました、検討します」と答え、電話を切った後に辞書で一気に調べる。相手も「あーこいつわかってねーな」と思っていることが伝わってくる。ヘンテコな回答していたと気付いて頭を抱えながら、一つずつやり方を覚えていった。
「『取引口座を開設するってこういうことなんだ』『仕様書ってこう書くのか』『菌検査の証明書なんてものがあるんだ』『賞味期限の設定ってこうやるのか』_こんなレベルのことを本当に一つずつ、とにかく勉強させてもらった」と振り返る。
素人と思われないように取り繕いながら、失敗して恥をかいても、突き進んだ。「わからなくても諦めないでどんどん対応してくるので、相手にとってはいい“パシリ“ができたくらいの感覚だったかもしれないですよね。でも、それでもよかった。おかげで、沖縄と本土をつなぐ仲介役として、大事な役割をいただくことができたから」
東京の国際展示会に出展した=2005年頃、都内
「沖縄のもので、こういう企画がやりたいんだけど、用意することできる?」
與那覇さんの元には、こんな依頼や相談がひっきりなしに入るようになった。経験のない調達ボリュームでも、細かな案件でも、飛び込んでくる依頼をなんでも引き受けることをモットーにした。ないものはつくる。地元のメーカーや生産者を頼りながら、沖縄全体でできることがどんどん増えていく実感があった。
「沖縄の窮屈さから逃れたい一心で沖縄の外に仕事を求めたけれど、逆に外から仕事をもらえるようになった。沖縄県内でも『特産さんから仕事がもらえる』と言ってもらえるようになって。少しでも、沖縄に還元できたことが何よりも嬉しかった」
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第二の創業、琉球人の行動に倣う
再起を賭け、家族一丸で走り抜けた25年。シークヮーサーの生産、加工、店舗、飲食、卸、ネット通販を一社で手がけるようになった沖縄特産販売は、シークヮーサーの取扱量で全国50%のシェアを占めるまでに拡大。6次産業化の先駆けとして、県内外で存在感を高めてきた。
與那覇さんは2018年、創業以来務めた沖縄特産販売の代表を弟に引き継ぎ、退任。再び、個人事業の「独立」を経て「478COMPANY」を立ち上げた。視線は、沖縄、本土を飛び越え、アジアや世界に向いている。「精一杯やってきたつもりだが、まだまだ可能性を信じやり切れなかったこと」に打ち込むという。自ら「第2の創業」と位置付ける。
478COMPANYのメンバー、家族とお正月のお詣り=2020年元旦
「僕には、歩んできた道だからわかることがある」。
沖縄にシークヮーサーがあるように、世界各地には、その土地土地でしか流通していない“いいモノ“があふれている。生産者が自分の子を手塩にかけるように大切に育てた逸品、現地の人が外に出そうなんて考えてもいないようなモノやコトを域外に流通させ、「新たな市場を創り出すサポートがしたい」と話す。農家や生産者の暮らしや地域を豊かにする「世界の地域商社」の構築だ。
沖縄の特産品の付加価値を高め、様々な売り方を模索し、販路を掘り起こしてきた実務経験が何よりの強みと自信につながっている。だが、ここからは、単なるモノの販売にとどまらないという。
海外事業を始めたのは1998年ごろから。(写真右上から)シークヮーサービール用に果汁を提供した豪メルボルンのブルワリーの代表とビール工場で/メルボルンで開かれた沖縄観光のプロモーションレセプションで有名シェフと(いずれも2017年)/タイのバンコクで2014年に初の海外進出事業として開業した石垣牛専門グリル&レストラン「DAISUKI(ダイスキ)」の店内の様子。
「大きな話に聞こえるかもしれないが」と前置きしつつ、目標は明快だ。
「世界を射程に入れたビジネスで、沖縄から世界に通用する会社を目指す。琉球王国時代に命がけで世界に渡り、交易によってアジアと日本を繋いだ先人たちは、当時、時代の先端をいっていたはずだ。沖縄で得た経験と授かった人の縁を生かして、改めて時代をつくる架け橋になるような仕事がしたい」。
地球温暖化や食料不足、エネルギー問題など、世界が直面する課題解決にもつながるような、新たな切り口の事業、起業家との関わりがこれからの478COMPANYの事業展開の鍵になる。食や農に関連する研究開発で成果を上げる国内企業との具体的なビジネス連携が間もなく動き出す。
「家族」というチームで乗り越えた数々の困難も、積み上げてきた実践実務も、全てが今の自分を形づくる肥やしや糧となり、挑戦を支える後ろ盾となった。この経験を、自身の子どもや孫を含め次の若い世代に伝えていく。「世界に通用する企業が地元にあることを、沖縄の子らに誇りに思ってもらえるように」。この目標を新たに、市場開拓と営業現場の第一線に立ち続ける。
Polestar Okinawa Gateway編集ディレクター・ライター/座安あきの